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試練に会う時は

ヤコブ1:1~4「試練に会う時は」  

神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二の部族にあいさつを送ります。

私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。

あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。


おはようございます。寒い日が続きますが、今月もこうして皆さんとご一緒に、私たちの主なる神様を礼拝できる恵みを感謝いたします。


【序ーヤコブの手紙】

 今、読んでいただいたヤコブの手紙は、その名の通り、ヤコブが書いた手紙です。聖書の中に出てくるどのヤコブかというと、主イエスの兄弟ヤコブ(マタイ13:55)であると言われています。彼は、初めのうちは自分の兄であるイエス様を救い主として信じるには至らなかったようです。

マタイ13:57「こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。『預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」とあるように、故郷の周りの人々と同じようにイエス様を疑いの目で見つめる一人だったのかもしれません。

 しかし、彼は後に、復活されたイエス様に出会い、変えられます。Ⅰコリント15:7「その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。」

 そうして彼はエルサレム教会のリーダーの一人として活躍するようになりました。(使徒15:13)そんな彼が、国外に離散しているイスラエルの人々に書き送った手紙がこれです。

【挨拶ーーからの試練】

 初めの挨拶のあとにいきなり「試練」という言葉が出てきます。この手紙は、パウロが書いた手紙とは違って、必ずしも論理的に順序だてて書かれているわけではなく、試練の真っただ中にある人たちのために、彼が必要を強く感じて書いたように見えます。

 実際この手紙が書かれた当時、各地に散らされたクリスチャンたちは迫害を受けていました。そのためその困難を思いながら、真っ先にヤコブは「試練」という言葉を出して来たのではないかと思うのです。 

 私たちもさまざまな試練に会います。「神様なぜこんなことが起こるのですか」「どうして次から次へと困難が重なるのか」と思うことがあるのではないでしょうか。

 ある人たちは、信仰を持てば苦しみはなくなると期待します。苦しみの中で救いを求めて教会につながるようになり、やがて信仰を持ってもその苦しみがなくならないと、そのことが納得できないという人がいます。そして信仰から離れようとします。確かにある宗教は、「信仰を持てば苦しみがなくなる」と言っているかもしれません。

 しかし、聖書が教える信仰は、信仰を持てば結果として苦しみがなくなるといっているのではありません。信仰は、その結果、どんな時にも喜び祈り、感謝できる、そういうものを内に持つことができるようにさせるです。

 もちろん、神様は全能のお方ですから、私たちが直面している困難を取り除くこともおできになる方です。そしてまた、私たちは困難が取り除かれるように神様に祈って良いのですが、神様を信じて生きることで得られる幸いは、どんな時にも喜び、祈り、感謝できることなのだと思います。

【さまざまな試練】

 さて、試練には「さまざまな」ものがあるとヤコブは言います。これは皆さんも実感なさっているのではないでしょうか。ぱっと思いつくものでも、健康面での試練、経済的な面での困難、人間関係の苦しみなどが考えられます。

 その中には若い時ならではの試練もあれば、年を重ねたゆえの試練もあるでしょう。(高校生だったら、勉強、友人関係、恋愛、将来。また年を重ねて味わう試練は、健康、家族などがあげられると思います。年代によって、ライフステージによって、変わります)

 また、周りから見ても明らかな試練があれば、誰にも気づかれず、理解されないような試練もあると思います。

 他にも、他の人にとっては何でもないことが、その人にとっては非常に苦しいということもあります。

 そのように本当に試練というのは単純ではありません。様々なものがあるのです。

【試練に会うときは】

 そんな試練に会う時、私たちはどうあるべきでしょうか。

2節後半「この上もない喜びと思いなさい」

 驚きの言葉です。普通に考えれば、試練など、喜べるわけがありません!むしろ喜ぶなんて不自然なことです。苦しい時は苦しいと思う。嫌なときは嫌、怖い時は怖い…それが自然なことです。けれども聖書は「試練に会うときは喜びなさい」と言うんです。しかもこの上もない喜びと!この上もないとは「これ以上がない」ということです。

 なぜそう言われているのかを見てみましょう。

① 信仰がためされる

 神様があなたを、この私を、整えるためには試練の道を通らせるということです。

 ためすというのは、本当かどうか、それでいいのかどうかやってみることです。学生にとっては試験、テストがその機会となります。

 「信仰をためす」つまり、私たちの信仰が本物かどうか、それを証明するとはどういうことでしょう?神様に対して私たちが信仰を証明しなければならないのでしょうか?

 そうではないと思います。神様はすべてをご存じのお方ですから。神様に対する証明ではなくて、むしろ逆だと思うのです。

 私たち自身にこの信仰が本物であると言うことを証明して、私たちが本当に神の子であり、どんな試練も私たちの信仰を打ち負かすことはできないということを教えてくれる機会なのだと思います。

 そう考えると、試練に会うのは、神様がそれだけあなたに、私に、望みをもち、期待をしていてくださることの証拠だということです。主の期待がなければ、敢えて試練を与えることはなさらないでしょう。

 神様があなたに期待して、育もうとして見ていてくださる、それが試練が喜びとなる一つの理由だと思います。

② 忍耐が生じる

 そして、信仰が試されると私たちは得るものがあると言います。「忍耐」です。

 しかし、今どき忍耐とか我慢なんて、流行らないかもしれません。現代に比べて昔は、いろいろと我慢することが多かったと思いますが、今の時代はあらゆるものが便利で簡単に手に入ります。この寒さも、電気のスイッチを入れればすぐに暖かくなるので、しのげます。おなかが空いたら、財布やスマホを握ってすぐそこのコンビニまで行けばいいのです。暖まるために火をおこすとか、食べ物を手に入れるために時間や労力をかけるということはすっかりなくなりました。これだけ便利な世界だと我慢すること、忍耐することは不要です。

 ところが、聖書を読むと、忍耐は私たちが持つべき大切な品性だと書いてあります。私たちクリスチャンまでもが忍耐することを軽んじたり、ゆがんだ理解で捕らえないようにしたいものです。

 試練のさなかにいるときは、本当に苦しく、辛いですが、それでもその時を通して、「忍耐」という神様の恵みを与えられるということが喜びに繋がってくるのです。自分の努力や工夫では手に入れられない「忍耐」が与えられると言うことを忘れないようにしましょう。

③ 成長を遂げた完全な者となる

 そして、私たちは与えられた忍耐を働かせることによって成長することができます。神様は私たちに「成長」を与えようとして試練に会わせられます。

 成長は子どもだけに与えられるものではありません。大人だって成長します。肉体的な成長が止まったあの日から私たちの成長は止まったとは言いません。身長はもう伸びない、でも私たちの人としての成長はまだ続いています。強くも弱くも整えられていく私たちの「成長」に、この試練が大きな役割を果たします。

 皆さんもすでに経験なさっているのではないでしょうか。苦しみや困難が、私たちを造り変えていく機会となっていることを。

しかも別の箇所ではこうあります。

1コリント10:13「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

つまり、神様は試練を通して私たちを痛めつけて潰そうとなさるのではなく、耐えられるようにしてくださるのです。

 試練を通して与えられる忍耐を働かせていくことで、私たちは成長します。と言っても、試練など、楽しくも面白くもないでしょう。逃げ出したくなるかもしれません。これだけ辛い経験は二度としたくない、こんな目に合うなら信仰など持っていない方が楽だったのに!と思うこともあるかもしれません。

 ヤコブのこの言葉を心に留めたいと思います。

12節「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」

 あなたの直面している試練や困難は、誰からも理解されないかもしれません。そもそも、人は一人ひとり違う存在なので、近くても、似ていても、完全に分かり合うことはできないものです。でも、神様は違います。あなたのすべてを知っていてくださる。見ていてくださる。理解して、支え、忍耐を与え、成長させてくださる、いのちの冠を約束してくださっているのです。

 ただ、気を付けて見てください。これは、「神を愛する者たち」に対する神のことばです。神を愛するのではなく、自分を、この世を、愛する者がどれほど多いことでしょう。その中で、私たちは神を愛する者でありましょう。

 最後にもう一か所みことばを開きましょう。

ローマ5:3-5「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 私たちが今経験している試練や苦難を、どのようにとらえるか、その先に何を見るのか、問われていると思います。今もなお注がれている神の愛を静かに味わい、決して失望に終わらない希望を抱いて今週も歩んでいきましょう。


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