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私たちの祈り

スズキ知恵子

 

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マタイ6:9~13「私たちの祈り」  

 

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

 

御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

 

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」

 

 

 おはようございます。厳しい暑さの夏を乗り越え、少し秋らしい風が吹くこともあって、朝晩しのぎやすくなってきました。皆さんは今日どのような体調と心の状態でこの会堂に足を運んでおられるのでしょうか。ともに主を礼拝できることを感謝します。

 

【主が教えてくださった祈りー神への呼びかけ】

 皆さんはどのような時に祈るでしょうか。日曜礼拝の時、食事の前、寝る前・・・などそれぞれのタイミング、祈り方があるでしょう。では、あなたはなぜ祈っているのですか。

 

 今日読んでいただいた箇所は、イエス様が山上の説教の中で教えてくださった祈りです。聖書を読むと、ルカ11:2~4にもこの祈りが記されています。ただ、その状況は異なっていて、ルカの方では、一人の弟子の質問に答えてイエス様が教えてくださったことが分かります。

 

 

 いずれにせよ、主イエス様が、弟子たちや群衆に祈りについて具体的に教えておられるのです。「あなたがたはこう祈りなさい。」(9節)とあるので、命令形です。直前の6節では「あなたが祈るときは・・・」とあり、使われているのは単数形ですが、主の祈りは「あなたがたは・・・」なので、会衆の祈り、ともにささげる祈りとして教えられています。

 

 

 まず、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけます。

 

 祈りにおいて大切なことは誰に祈るのかということです。旧約聖書イザヤ44:9~20には空しい偶像にささげる祈りについて書かれています。一部を読みたいと思います。10:だれが神を造り、偶像を鋳たのか。なんの役にも立たないものを。

 

11:見よ、その人の仲間たちはみな恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて、ともに恥を見る。

 

15:それは人間のために薪になり、人はその一部を撮って暖を取り、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、これを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。

 

17:その残りで神を造って自分の偶像とし、ひれ伏してそれを拝み、こう祈る。『私を救ってください。あなたは私の神だから』と。

 

 私たちが祈る対象は天におられる方です。「天におられる」とは、空間上のことではありません。それは、神が私たちの地上世界を超越したお方で、住むところが違い、私たちのどんな想像をも超えたお方であるということを表しています。5:45、6:32、7:11、10:32、11:25でも繰り返し神様のことを「天の父」「天地の主」「天におられる父」と表現されています。

 

 

 私たちが理想とする父親像をも超えています。私たちが思い描く「理想の父」というのはたかが知れています。それをもはるかに超えるお方で、万物を創り、支配し、全世界を御手のうちにおかれ、私たちが決して近づくことができない方です。すべてのものをはるかに超えた崇高な方。「天にいます」というのは、そういうことを指しているのではないでしょうか。

 

 だとすれば、「天にいます私たちの父よ」とは、不思議な呼びかけです。神様はすべてのものをはるかに超え、私たちが決して近づくことができないはずのお方であるのに『お父さん』と呼ぶことができるほど親しく、近くにおられることを表しているからです。

 

 イエス様は神様のことを「アッバ」と呼ばれました。これは「パパ」「お父ちゃん」という子ども言葉です。それほどに父なる神様と親しい交わりをもつお方、イエス・キリストが、私たちにも「父」と呼ぶようにと言ってくださったからこそ、私たちも「父よ」と呼ぶことが許されているのです。

 

 

 

 そして「私たちの」と複数形で祈ります。「私たち」とは、私と誰のことを指すのでしょうか。

 

 ひとつは「主イエスと私」としての「私たち」。私の傍らで、イエス様が同時にこの祈りを祈っておられます。いや本当は逆で、主がこの祈りを祈っておられるそばで、私も一緒に、イエス様に導かれて、この祈りを祈ることが許されているのです。

 

 

 

 もう一つの「私たち」の意味は横の関係です。主の祈りは共同体の祈りです。私たちはこの祈りを一人で祈るのではありません。たとえ一人で祈る時でも、この祈りには私たちの家族が含まれています。私たちの国が、私たちの世界が、含まれている。

 

 

 

 そしてその「私たち」には、キリストを信じる人も、信じない人もいます。すべての人が、この祈りには含まれているのです。主の祈りには、何度も何度も「私たち」という言葉が出てきますが、そのたびに「私」だけではなく「私たち」この世界のすべての人の主に祈っていることを思い起こすのです。

 

 

 では、私たちはこのお方に「何を」祈るのでしょう。大きく分けて2つ。①神様のこと、 そして②人間(私たち)のことです。

 

【神をあがめる祈り】

①御名が聖なるものとされますように

 昔の訳では「御名をあがめさせたまえ」そして「御名があがめられますように」でした。「あがめる」とは、一般的には「敬う、尊敬する」よりももう一段階上のことを意味する言葉です。日本的に言うならば、人を敬ったり尊敬したりすることはあるけれども、崇めることはあまりしません。崇める対象は神や仏のレベルになります。

 

 

 英語では「hallowed be Thy name.」と訳されていますが、hallowは「神聖な」という意味なので、最近の新しい訳では「聖なるものとされますように」となっています。

 

 こうして私たちはまず祈りの初めに、まことの神様をきよいお方として覚えるのです。「聖なる」の反対語は「汚い、けがれ」ですが、私たちは自分の罪深さ、けがれを日常生活の中で感じつつも、神様を聖なる尊いお方と認めて尊ぶより、自分が尊ばれること、高められることを求めてしまいがちです。神の御名を聖なるものとして高めていない現実があることを覚えて、まず神様が聖なるものとされることを求めて祈りましょう。そして、みことばによると、私たちを贖われた方がきよいお方なので、私たちにもきよさを求められます。

 

レビ19:2「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるからである。」

 

②御国が来ますように

 御国とは、神の国。神の支配がある場所。神の支配がここに来ますようにと祈っていますが、議論が生まれるところかもしれません。

 

 というのも、マタイ3:2ではバプテスマのヨハネが「天の御国が近づいた」と語り、マルコ1:15ではイエス様ご自身が「時が満ち、神の国が近づいた」と語っておられますが、ルカ17:20,21ではパリサイ人たちに「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、イエス様は「神の国は・・・『見よ、ここだ』とか『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」とおっしゃったのです。

 

 さて「御国」はこれから来るのでしょうか。それともすでに来ているのでしょうか。みことばから考えるなら、主イエス様がこの地上に来られたことで神様のご支配が始まり、今は御国の完成に向かっている途中なのだということだと思います。だから、神の国、神のご支配、神のみわざはこれから完成しますが、同時に今、ここでも行われているということができます。

 

③みこころが天で行われるように、地でも行われますように

 Thy will be done on earth as it is in Heaven


みこころ=will。それは神の意思、ご計画、神のこころ、神が望んでおられることと言い換えていいでしょう。天で神様のご意思が行われているように、ここ地上でも神様のご計画がなされていくように私たちは祈るのです。

 

 実際私たちは日々、誰の意志が実現することを願って生活しているのでしょうか。多くの場合、それは自分の意志、自分の思いや願いだと思います。自分の意志の実現のために日々働き、それが少しでも実現すれば喜び、自分の思いとは違う事態になると悲しみ嘆く、そういう日々を送っているのではないでしょうか。毎週の礼拝で、また毎日の生活において主の祈りを祈り、「みこころが行われますように」と祈りながら、現実に私たちが願い求めているのは、神のみこころではなくて、自分のお心、意志や願いになっていないでしょうか。本当に心から「みこころが行われますように」と祈るのは決して簡単なことではありません。そのためには、自分の思い通りになることを願うことをやめて、神のみこころが成ることを求めるように方向転換をする必要があるのです。

 

 

 「ハイデルベルク信仰問答」の問124には、この部分をこう説明しています。「わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」自分自身の思いを捨て去ることなしに、この祈りを本当に祈ることはできないのです。

 

 

 そのことは、前半の祈りにおいても実は同じです。第2代の国連事務総長を務めた、ダグ・ハマーショルドというスウェーデン人がいました。1961年に、アフリカ、コンゴでの内戦の和平のために出向いた中で、飛行機事故で亡くなってしまったのですが、彼はクリスチャンで、主の祈りで次のように祈っていたことが伝えられています。

 

「御名が聖なるものとされますように、私の名ではなく。

 御国が来ますように、私の国ではなく。

 

 みこころが行われますように、私の思いではなく。」

 

 みこころが行われように祈るとは、私の思いーーつまり自分の意志が行われるのではなくということですが、同じことが先の祈りの部分においても語られています。

 

 「御名があがめられますように」―――つまり「御名が聖とされ、あがめられますように」という祈りは、私の名ではなくて神の御名が聖とされ、あがめられますようにということです。

 

 「御国が来ますように」は、神のご支配が実現しますようにという祈りなので、私の国、私の支配ではなくて、神の国、神のご支配の実現を求める、ということです。

 

 このように、主の祈りの前半はどれも、自分の栄光、自分の支配、自分の意志ではなくて、神の栄光、神の支配、神のみこころの実現を求めるという内容なのです。これらの祈りを祈るとは、自分の栄光、自分の支配、自分の思いを捨てることなのです。

 

【人の必要を願い求める祈り】

 主の祈りの後半は人の必要を願い、求める祈りになります。

 

①私たちの日ごとの糧を今日もお与えください

 イエス様が教えてくださった祈りは非常にシンプルでした。私たちは、毎日の必要を求めて良いのです。養ってくださる神様に信頼して求めていきましょう。

 

箴言30:8「…貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」

 

マタイ6:25,26、32「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。…あなたがたにこれらすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」

 

 イスラエルの民は40年間の荒野の旅で、毎日与えられるマナによって生き続けました。(出エジプト16章)「自分の食べる分に応じて、一人当たり1オメルずつ、それを集めよ。」…イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。…とても不思議ですが、神様は荒野という希望を持てないような環境の中でも、人々に毎日の食料を与えて養ってくださるお方なのです。

 

 私たちは祈り、求め、与えてくださる神様に感謝して歩んでいるでしょうか。

 

②私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

  次に、私たちの負い目(罪)にスポットが当たります。「神に対する負い目(罪)の赦し」が、「自分たちに対して負い目のある人たちを赦す」ことと密接な関係をもっているのです。

 

 使徒パウロもこう言いました。

 

エペソ4:32「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

 

コロサイ3:13「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

 

 あくまでも神様の恵みによる無条件の赦しが前提にあります。そしてその前提に立って、他の人を赦すべきことを勧めています。神様の無条件の赦しが先行しているのです。ではなぜ「私たちの負い目をお赦しください」と祈る必要があるのでしょうか。

 

 それは、神様からの赦しと人を赦すことの密接な関係を正しく保つことが、簡単ではないからです。

 

 主人(王)のあわれみによって膨大な負債を帳消しにしてもらったしもべの話をご存じでしょうか。しもべは自分の負債は帳消しにしてもらったにもかかわらず、自分に借りのある者を赦さず、借金を返すまで牢に投げ入れたとありますが(マタイ18:21~35)、私たちもそのような事態になることが多々あるからです。

 

 神様に対する負債、負い目、的外れな罪を完全に赦されたことを正しく受け止めることと、自分に対して負い目のある人や自分に対して悪いことをした者を赦すこととは、切っても切れない関係にあるのです。ですから、私たちは「私たちの罪(負いめ)をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者たちをみな赦します」という祈りをする必要があります。

 

 しかも、赦すことは間髪を置かず、すかさず赦すことが必要です。放っておくと心の内側で悪臭を放ち、引きずります。日ごとに私たちが神からの無条件の赦しを受けていることを絶えず意識しながら生きるために、この祈りはとても重要な祈りと言えます。

 

③私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 聖書は、神様がその愛する者に試練をお与えになることを教えています。旧約では、「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた」(創世記22:1) 神様がアブラハムに対して信仰のテストをされたのです。

 

 新約でも「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちて行く金よりも高価であり、…称賛と光栄と誉れをもたらします。」(Ⅰペテロ1:6, 7)とありますし、ヤコブは「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。…そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」(1:2-4)と語りました。さらに「試練に耐える人は幸いです」(1:12)とも言われています。確かに試練のすべてを敵視する必要はありません。試練を通して成長が与えられることもあるからです。

 

 ただ、私たちは、もろく弱い存在です。そのため、悪魔は私たちを待ち構え、付きまとい、攻撃し、私たちを絶えず試みてきます。あの手この手を使って何としても神様から引き離そうとするのです。

 

 そんな状況にあって「どうかあなたの聖なる御霊の力によって、私たちを守り、強めてください」と祈る祈りがこれです。そうして、私たちは圧倒的な勝利を得るのです。

 

1コリ10:13「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方が耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

 

【まとめ】

私たちは天におられる全地の主に祈ることが許されています。

 

しかも「父と子」の親しい関係で!

 

ただ、その祈りの内容を今一度吟味したいのです。

 

まず、まことの神様を聖なるものとしているでしょうか。

 

自分の栄光があらわされるためにではなく、神様の栄光があらわされるようにと祈り、この地上でも神様のご支配が広がっていくようにとともに求めていきましょう。

 

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