復活の主とともにあゆむ
ルカ24:13~35「復活の主とともにあゆむ」
2024/04/14
スズキ知恵子 先生
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おはようございます。先日の台湾での大きな地震に心を痛めています。皆さんの親せき、ご友人のご無事とその後の生活が守られますようにと祈ります。
2週間前、私たちはイースターでイエス様の復活をお祝いしました。けれども実際、「復活さえなければキリスト教を受け入れられるのに!」と言う人がいます。それは理解できますね。十字架で殺されたはずの人が、よみがえり、兵士が見守り封印されている墓の中から忽然と姿を消し、部屋に閉じこもっている弟子たちの真ん中に突然現れ、幽霊ではないしるしとして魚を食べたというのです。イエス様の弟子たちにさえ信じがたいことでした。まして現代の人々には作り話にしか聞こえないかもしれません。しかし、この復活なしに、主イエス様が全世界の王と認められることはあり得ません。
とはいっても、疑い悩む人にイエス様は、「復活を文字通り頭から信じなければ、あなたはダメだ!」などと迫るのではなく、別のアプローチをなさいました。今日はそこから神様のみこころを教えられたいと思います。
1.復活の主と暗い顔の二人
「ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が……」(v.13) とありますが、その「弟子たち」とは、(v.11) にあるように、主の復活に関する証言を「たわごとのように思えたので…彼女たちを信じなかった」人たちでした。
「彼女たち」の名前は、24:10「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア」と三人はっきりと記録されています。23章を見ると、彼女たちは男性の弟子たちとは違って逃げることなく、イエス様の十字架を「離れたところに立ち、これらのことを見ていた」「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」であり (23:49)、「イエスのからだが(墓に)納められる様子を見届けた。」と描かれていました。(23:55) これを読むと、イエス様に対する愛は弟子たちよりも彼女たちの方がはるかに深いように思われますが、男性の弟子たちはこの女性たちのことばを信用しようともしませんでした。
といってもペテロは、イエスの墓の様子を見るために走って向かい、墓が空っぽなのを確認しました。ところが今日出てくる二人の弟子はそのような行動を取ることもなく、弟子たちが集まっていたエルサレムを離れ、そこから11㎞離れたエマオという村に向かうところでした。(池袋からだと渋谷あたりまでの距離なのでそう遠くはないですね)彼らは墓を見に行くわけでも、他の弟子たちとともに旧約聖書を読み直したり祈ったりするわけでもなく、主の弟子たちの交わりを背にして、ただ「話し合ったり、論じ合ったり」(v.15) しているだけでした。
するとイエス様が近づいて来て「歩きながら互いに語り合っているその話は何のことですか。」と尋ねると (v.17)、「二人は暗い顔をして立ち止まった」。のちの時代に信仰を持って生きている私たちにとって、これは笑ってしまうシーンです。というのは、復活された愛する先生イエス様ご自身に語りかけられているのに「暗い顔」になっているというのですから。
「そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。」 (v.18) 彼は話しかけてきた人(イエス様なのですが)が自分たちの話の内容を分からないということ自体に驚き呆れ、「あなただけがご存じないのですか」(v.18) と、その愚かな質問をした人、愛する先生イエス様を責めるように答えます。厳密には「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起ったことを、あなただけがご存じないのですか」と記されていて、イエス様がエルサレムの街のすぐ外で処刑されたことは、彼らにとってすべての世界の終わりを意味していたようなもので、それを知らない人がいるということ自体が彼らの心をなお暗くしたのかもしれません。
同じように、私たちの心が暗い状態になっているとき、あらゆることが失望の材料になってしまうことがあります。
この責めるような問いに、イエス様はとぼけるようにたった一言、「どんなこと?」(19節原文「ポイア」) と答えます。イエス様は、彼らの前に立ちはだかってご自身を現し、一気に彼らの不信仰を正すこともできたはずですが、疑う者とともに歩み、彼らの絶望感と困惑を優しく聞き出すことを選ばれたのです。
(v.20-21)「私たちの祭司長や議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」
(v.23-24)「仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻ってきました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げたというのです。」
彼らのこの説明から察する彼らの主張は、期待は裏切られたということと、あり得ない知らせに戸惑っていたということです。 そればかりか「仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」と続けて説明し、彼らは「彼女たちの言ったとおり」と言いながら、御使いのことばなど、まったく無視していたことが分かります。
マタイ福音書によると、祭司長とパリサイ人は、イエス様が「わたしは三日後によみがえる」と予告していた復活の預言が実現したと言われないように、墓に番兵をつけるように総督ピラトに願っていました (27:62-64)。ですからこの二人の弟子は、これをイエス様の身体が盗まれて、復活預言が否定され、自分たちもが「迫害を受ける原因」になると受け止めたのでしょう。
しかし、現在の私たちにとって、イエスの十字架こそすべての「望み」の原点であり、墓が空っぽだったという事実こそ、復活の証拠です。人は時々、同じ出来事をこのようにまったく正反対の受け止め方をしてしまうことがあります。それは、神の救いのご計画の全体像を知ることができていないためです。
2.「苦しみの後、栄光」という聖書のストーリー
イエス様は、彼らを「愚かな者たち、心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と責めながらも、優しく彼らの誤解を正します。
その際、26節で「キリストは必ずそのような苦しみを受け、それからその栄光に入るはずだったのではありませんか」 と語られました。7節でも「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう」と記され、後の44節では「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません」と記されています。
「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めてご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」(27節) イエス様は、かなりの時間をかけられたのでしょう。単にイエス様について預言されている聖書箇所を羅列するのではなく、聖書全体のストーリーを要約するという感じだったでしょうか。
◆たとえば、創世記3:15。女の子孫である「救い主」が蛇にかかとをかみつかれながらも、蛇の頭を踏み砕くという話は、既にここに「苦しみを受けて、栄光に入る」ことが預言されていると言えます。
◆また、ヤコブとヨセフの生涯にも「神がともにおられる」ということを見ることができますが、それぞれの最初には驚くべき苦難がありました。ヤコブは家族から離れて伯父ラバンのところに行きましたが、伯父から散々騙されつつも12人の息子を得、豊かにされました。息子の一人ヨセフは、兄たちから奴隷に売られ、さらに無実の罪で投獄されることを通して大国エジプトの大臣にまで引き上げられました。神がともにおられる中で彼らは苦しみました。しかし、それを通して栄光を受けました。
◆また、イスラエルの民はモーセに導かれてエジプトから救い出されましたが、その前の四百年は奴隷として苦しんでいました。
このように聖書全体で、苦しみを通しての救いが記されています。
◆イエス様のお姿もイザヤ書52~53章に預言されます。「(52:13)見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」「(53:4)まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……(53:10)しかし、彼を砕いて病を負わせることは主 (ヤハウェ) のみこころであった」 と続きます。
ところが弟子たちは、神が遣わした救い主なら十字架などで苦しむはずはないと思っていました。けれども、実際聖書はすでにその逆のことを語っていたのです。苦しみを通して救いが実現するということです。私たちも、自分の期待や理想に縛られて、神様が準備しておられる救いのストーリーを誤解してはいないでしょうか。
3.目が開かれた
イエス様は、彼らに聖書を語り終えたので、エマオの村に近づいたとき、彼らから離れてもっと先まで行きそうな様子を示します (v.28)。しかし、二人の弟子は「一緒にお泊まりください」(v.29) と強く勧めます。それでイエスは、彼らとともに泊まるため、中に入られました。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました(v.30)。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かった(v.31) というのです。
この「目が開かれる」体験は、目の前におられる方が復活された主イエス様だという事実の確認につながり、愛の交わりの回復につながり、平安と勇気が生まれたのです。
私たちが主の臨在を味わえない理由に、自己満足に浸ってイエス様との交わりを求めないことと、イエス様を自分の心の王座に置きたくないという思いが邪魔となっている場合があります。彼らはこの時、自分たちにみことばを説き明かしてくださった方こそが、自分たちの飢え渇きを満たしてくださる主であることを知ったのです。
皆さんは神様の救いを漠然と、抽象的に考えてはおられないでしょうか。主の臨在は、私たちの日常生活のただ中で体験できるものです。日曜日のこの会堂に来ないと味わえない恵みではありません。皆さんの日常生活の中でまさに「目が開かれる」体験、主の臨在を味わう経験ができるのです。
その後、「…その姿は見えなくなった。二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちに燃えていたではないか、』」(v.31、32) と描かれます。かつてはイエスの身体が見当たらないことが暗い顔の原因だったのに、今は違います。復活されたイエス様が、目には見えなくても、ともにおられると分かったのです。
皆さんはどうでしょうか。今までの人生で、みことばが不思議に心に響き、心燃やされた体験があったのではないですか。そこに主はおられたのです。
その後、この二人の弟子は、もう日が暮れたというのに、怯えることもなく急いでエルサレムの仲間たちのもとに戻りました。その日の午後、「暗い顔」で交わりから離れた二人が、喜びに満たされてそこに戻り、そこで他の弟子たちとともに「本当に主はよみがえられた!」とともに喜び合い、「道中で起ったことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話し」ているのです (v.33、34)。それは私たちにも起こることです。イエス様は群れから離れようとしている人に現れ、その人をご自身の交わりに戻してくださるのですから。
教会で行われる聖餐式は、まさに主ご自身が私たちのためにパンを裂いて、分け与えてくださる体験、またそれを通して私たちの霊の目が開かれ、主イエス様の臨在を喜ぶ体験でもあります。
もしかしたら皆さんも「暗い顔をして」教会の交わりから離れたくなる時があるかも知れません。そんな時神様は、不思議な方法をもって霊の目を開いてくださいます。悩みを聞いてくれる同伴者が与えられるかも知れません。みことばの解説をして理解を助けてくれる同伴者が与えられるかもしれません。
復活された主イエス様が、この、期待を裏切られ、恐れに囚われて、交わりから離れようとしている二人の弟子とともに歩み、彼らのぼやきを聞いてくださったことは、私たちにとっても大きな慰めと期待に繋がっています。
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