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周りは敵ばかり。救いはどこに

詩篇3:1~8「周りは敵ばかり。救いはどこに」  

主よ なんと私の敵が多くなり 私に向かい立つ者が多くいることでしょう。

多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。セラ

しかし 主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭を上げる方。

私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。セラ 

私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。

私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。

 

主よ 立ち上がってください。私の神よ お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち 悪しき者の歯を砕いてくださいます。

 

救いは主にあります。あなたの民に あなたの祝福がありますように。セラ

 

 

新年あけましておめでとうございます。年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。寒い日が続きますが、今日もここで、ともに主を礼拝できることを感謝します。

【背景】

 今日の聖書箇所のタイトルに「ダビデの賛歌、ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」とあります。

 詩篇の約半分は、神の助けを仰ぐ祈りの詩篇です。そこでは困難な状況の中にある詩人が、ついには神の恵みと助けを確認し、勝利の信仰を表明する形がとられています。

 今日の箇所もその一つです。

ダビデがこの詩を詠ったときの状況は「その子アブサロムから逃れたとき」です。自分の子どもから親が逃げるとは、いったいどういう時だったのでしょう。今の時代だと、虐待や反抗などの理由で親元から子どもが逃げると言うことが想像できますが、これはその逆の状況です。この時のことはⅡサムエル15-17章を読むと分かります。

 

 アブサロムはダビデの3番目の息子で、「平和の父」という意味の名前をつけられました。Ⅱサムエル14:25を読むと「イスラエルの中でアブサロムほどその美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非の打ちどころがなかった。(新共同訳)」とありますから、周りからも美しさを評価され、自分でもそれはそれは自信に満ち溢れていたのだと思います。

 

 彼は、愛する妹タマルを手ごめにした異母兄弟アムノンに激怒し、機会を伺ってなんと2年後、彼を殺害して、家族の下から逃げました。家族の中で殺人事件が起こったわけですから、ダビデ家には大きな悲しみと後悔や憎しみが渦巻いたことでしょう。

 その後3年経って、ダビデ家の状態を憂えたダビデの軍隊の長ヨアブの取り計らいでエルサレムに連れ戻されたアブサロムでしたが、父ダビデに会うことは許されませんでした。そんな彼の心中は想像できます。

「もともと悪いのは妹に乱暴を働いたアムノンだ。そいつに罰を与えて殺したにすぎない。何が悪い!?エルサレムに呼び戻しながら王宮に行くことすら許されない。おかしくないか!?」

 

 そんな風に悶々としたアブサロムはそもそも王子ですし、外見も魅力的だったので、彼の周りには彼を慕う人々が集まってきました。年を重ねたダビデよりもこれからの時代はアブサロムだ!というように…。

 

 そんなこんなで4年間。詳細は省きますが、周到な準備を重ねたアブサロムは父ダビデに謀反を起こしました。今までダビデに仕えていた知恵者アヒトフェルもアブサロム側につき、様々な巧みな計略を提案しましたから、ダビデたちはどんどん追い詰められていきました。そうやって逃げているときにダビデが詠った詩が今日の箇所です。

 

【現状の厳しさ】

主よ なんと私の敵が多くなり 私に向かい立つ者が多くいることでしょう。

 

多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。

 

 ダビデは息子だけでなく、周りを敵に囲まれていると感じています。実際にはダビデに謀反を起こそうとした人々ばかりではなかったようですが(Ⅱサムエル15:11,16~)、アブサロムの策略で、様々な不満や妬みの心を持つ人たちが動かされ、集まり、国がひっくり返るような動乱になっていったのです。

 

 私たちも周りは「敵」ばかりだと感じることがあります。人であったり、状況であったり。八方ふさがりで、前に進むどころか打ち敗れて倒れそうだと。けれども、敵が多く見えたとしても、事実は必ずしもそうではありません。新約聖書で、パウロがコリントの街で伝道していて反対に遭った時、主が語ってくださった通りです。

 使徒18:9-10「…この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」

 私たちにはその時見えなくても、主の民、味方が用意されていることを信じる者でありましょう。

 

 

 しかし、ダビデにとって、苦しかったのは人々の「彼には神の救いがない」という言葉でした。息子が自分を敵視し、チームを作って自分に反対すること、いのちを狙うこと、そういったこと以上に、神の救いがない、神から見放されていると言われることでした。かつてはイスラエル二代目の王様として国民に愛され慕われ、戦いに出れば連戦連勝。神にも人にも愛されていた人なのに、今や、息子に王位を、いのちを狙われている!?それはまさに神の御手がダビデの上から取り除かれたということではないかと噂されることでした。

 

 時代は異なりますが、イエス様は十字架にかかられるとき「わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ(マタイ27:46)ました。それを考えると、神の救いがない、神から見捨てられるということはどれほど悲惨で絶望的なことなのかと思うのです。

 

 ひどい苦しみの中にいる時、周りの人から「あなたは神に見放されたのだ。」「そもそも救われていなかったのでは?」「神様の愛はあなたから取り去られた」などと言われたら、どんなにかショックでしょう。息子や側近、愛する国民に反旗を翻されたダビデの心情は、そこまで追いやられていたということです。

 

【私たちの見るべきもの】

しかし 主よ あなたこそ 私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭を上げる方。

 

 しかし、です。ダビデの目線は自分を取り囲む多くの敵から「主」に移ります。1,2節では、彼の心は自分を取り囲む敵、多くの人の姿や言葉に向いていましたが、今は違います。

 

「主よ、それでも あなたはわたしの盾、わたしの栄え、わたしの頭を高くあげてくださる方。」(新共同訳)

 「敵が多くても、それでも、私を守り、私の名誉を回復させ、この逆境から解放してくださるのはまぎれもなく主だ」とダビデは確信し、告白するのです。私たちも同じように告白することができます。どんなに多くの敵に囲まれても、明らかに悪い状況でも、絶望に襲われても、主が盾となって私たちを守ってくださるからです。

【ダビデと主の関係】 

そうして、ダビデは神様と自分の関係をこう語ります。

 

私は声をあげて主を呼び求める。すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて眠り また目を覚ます。主が私を支えてくださるから。

 

 私たちが主に向かって声を上げれば、答えてくださいます。無視されることはありません。

 

 赤ちゃんはおなかが空いたとき、またおむつが汚れてしまったとき、泣きます。まだ言葉をしゃべることができないので、泣いて訴えます。それは、泣き叫べば親が、また近くの人が必要を満たしてくれると信じているからです。それなのに、人は年を重ねると泣き叫びません。確かに大人が泣き叫んだら、気が変になったのかと思われたり、静かにするようにたしなめられたりするでしょう。本人も、泣いたところで、訴えたところで、応えられることはない、どうせ聞いてもらえないというあきらめのようなものがあるからかもしれません。

 でも、私たちは声をあげて、主を呼び求めていいのです。人に頼ったり、自分で頑張って乗り越えなくてもいいのです。かっこつけて信仰のベテランらしくふるまおうとしなくていいのです。「主よ、助けてください。主よ、なぜですか。私を憐れんでください。この苦しみから救い出してください!」と声をあげて主を呼び求めるなら、主が答えてくださる。そうダビデは言っているのです。

 

 ダビデは、眠ることも、目を覚ますことも、主の支えがあってこそだと言います。当たり前のように夜眠り、朝になったら起きる私たちです。時には思い煩うことがあって眠れない夜を過ごすこともあるでしょうが、今の私たちには眠る場所があり、暖かい布団があります。しかし、ダビデは闘いの日々が多かったので、身を横たえて眠ること、朝目を覚ますこと自体が神様の守り、恵みだと実感していたのではないでしょうか。特にこの時のダビデは、息子から命を狙われて追われる身。うかうか眠っていられない状況にあったと言えます。

 

それでもこう言うのです。「私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも」(新改訳2017)「いかに多くの民に包囲されても決して恐れません」(新共同訳)

 

この場合の「民」は仲間ではありません。「敵」となった民です。当時ダビデの敵が総勢何人だったか分かりません。新改訳では「幾万の民」とありますが、文字通りの数万人ではなく「たとえ幾万人もの敵に囲まれようとも」と詩的に言っているのでしょう。

 

 それにしてもこう言えるのは、どれほど深く主を信頼していることかと思います。

 

【力強い祈り】

 そうしてダビデは、主が「立ち上がって」くださることを求めます。それは、相撲での「立ち上がり」、機械の「立ち上がり」のように、身を起こして立つ、行動を起こす、動き出すということをさす言葉です。

「神様、どうか立ち上がって私を救ってください!敵を打ち砕いてください!」と祈り求めました。ダビデの、神様に対するイメージは、王座にどっかり座って私たちを見ておられるという感じだったのかもしれません。それで「さぁ立ち上がって行動を起こしてください!」と求める祈りを捧げたのかもしれません。

 

 この詩を詠い始めた時は、周囲を取り囲む敵(息子を含む愛する民衆)に圧倒され、敵の言葉に打ちひしがれていたダビデでした。しかし、彼はそんな最悪の状況の中で、主の守りと支えを思い起こし、確信し、「救いは主にある」と勝利宣言しました。

 

 私たちも今年、本当に苦しいところを通らされるかもしれません。その時、思い出していただきたいのです。主こそ我が盾。声をあげて主を呼び求めるなら答えてくださる。私たちの日々に主の支えがある。救いが必ず用意されているということを!

 

【最後に】

 この詩の中に3回の「セラ」という言葉が出てきます。これは詩篇に71回、ハバクク書に3回出てきますが意味ははっきりと分からないと言われています。多くの聖書学者は、音楽の符号(休止符号か、楽器の間奏を求める符号)だと考えているそうです。

 

 セラ—――これが出てきたら、ひと時止まり、思い巡らします。直前に読まれたことを黙想してみましょう。

 

ということで、最後にこの「セラ」を意識してもう一度朗読してみようと思います。

朗読

救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ(新共同訳)

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