可能性は常に前にある
Phil. 3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
Phil. 3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
Phil. 3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
ピリピ3:1“最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。”
パウロは幾度となく、手紙の中で主にあって喜べと言っている。
くどさは、大切な要素。パウロの手紙にはこれがある。
本当に大切なことなら、相手の意識にはいり、腹落ちするまでそれを促す必要がある。
喜びは信仰生活に大切な要素。
喜びは私たちに力を与えるからだ。
そして、本当の喜びは状況や環境によって与えられるのではなく、
神との関係によって与えられる。
私たちの心の態度が神の前に正しければ、平安があたえられ、
傲慢であったり、心が曲がっているなら、平安は与えられません。
しかし、神の前に真実にへりくだっているなら、
神は私たちの心に触れ、整え、歩むべき方向に進む力を与えられる。
私たちはただ、主をよろこぶことで、神は私たちに力を与えられる。
神から、祝福を受けるのに多くの時間は必要ない。
必要なことは、神を慕いもとめること。
ネヘミヤ8:10「行って、ごちそうを食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい。今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」”
「主にあって喜びなさい。」これは神ご自身をよろこぶこと。
主を喜ぶことは私たちの力です。
神ご自身を喜ぶことは、少ないかも知れません、
私たちは、祈りを通して、お願いすることはります。
しかし、神の存在を喜ぶことは少ないのです。
大切なことは 、
願いや、願望を経由して神と繋がるのではなく、
神ご自身を喜ぶことで繋がることです。
人が神と直接繋がるなら、大きな祝福を得ます。
聖なる日に悲しんではならないといいます。なぜでしょうか。
それは、私たちは喜びも悲しみも感じるわけですが、
心の状態によって、物事の受け取り方が変わるからです。
もし、わたしたちの心が神を喜んでいるなら、
神から語られることばを批判することなく正しく理解することができるでしょう。
※休暇中・心中心の葛藤 体の痛み、心の痛み、それにともなう睡眠不足、与えられている責任、これからやらなければいけないこと、想定される最悪の状況、これらに囚われてしまい、み言葉が、正しく理解できなくなった
8:2 そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちから
なる集団の前に律法を持って来て、8:3 水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理
解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。
そして主を喜ぶことは、みことばを理解することと密接に関係しています。
エズラは律法朗読を、夜明けから真昼まで、したといいます。
数時間はかかっていたことでしょう。
これは神のことばに耳を傾けていたということです。
神のことばにこころを注ぎ、集中していました。
本当の喜びは神の言葉を聞くことによって、与えられます。
忙しい日常、あわただしい生活、
様々なことが目まぐるしく移り変わる今は、
少し一人になってみことばに聞く時間を持つことは難しいかもしれません。
しかし、もしその時間を持つなら私たちに、安息が与えられ、
力が、与えられ正しい方向を見ることができます。
というのはみことばを思い巡らすなら、同意できる部分や、反発する思いが出てきます。
もし、みことばと自分の思いがぶつかるなら、その多くの原因は私たちにあります。
良くない願望や、欲望がみことばを拒絶するのです。
そのよくない思いを神に委ねるなら、私たちは変えられていきます。
みことばは、私たちを整え、導きます。
神のみことばに従っていて、損はありません。
私たちに必要なことは、みこころを調べ、その通りに歩むことです。
ピリピ3:12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
パウロはどんな時にも、懸命に福音を伝え続けました。
持病、迫害、妨害は彼の宣教の働きを止める理由にはなませんでした。
年老いてからは、牢に繋がれ、
死刑の宣告を予感しながら教会に数々の手紙を書き送りました。
幾度となく死の危険を通ったパウロは、
試練の度に新たな力を得ているように見えます。
なぜこのように、彼は生き生きと活気に溢れ、
多くの人を励ますことができたのでしょうか。
それは、”ただ捕らえようとして追求しているのです。”という、
ことばから、パウロが常に前を向いていたことがわかります。
可能性は常に前にあります。
信仰を持って前進し続けるなら、神がわたしたちを捕らえてくださるのです。
これは、驚くべきことで、偉大な神が、小さな存在の私たちのところに来てくださいます。
Phil. 3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
パウロにとって過去の功績や失敗は彼の留まる場所にはなりませんでした。
パウロの宣教旅行を3回行い、それぞれ一年かかっています。
パウロは海岸の町々や通商路の町々でイエス様の福音を宣べ伝えました。
第一回の宣教旅行は、パウロとバルナバはシリアのアンテオケ教会を出発しました。
初めは、その町のユダヤ会堂で 説教するというものでした。
しかし、多くのユダヤ人がキリストを拒んだのです。
使徒伝13-14章
パウロはイエスの証しを大胆に述べ伝え、迫害されたのです。
ある町では、パウロは石打ちに会い、死んだかのように見えましたが、再び立ち上がりました。
試練や、鞭打ち、投獄を通してもパウロを止めることはできなかったのです。
第2回宣教旅行では、この時はバルナバと意見の相違が起こり、分かれました。パウロにとっては辛い出来事だと思いますが、二つの宣教チームとして神は祝福してくださいました。
使徒伝15:36-18:22
ピリピでは投獄され、彼らは牢獄で賛美の歌を歌い、神は地震を起こして牢の戸を開け、救ったのでした。そして、看守とその一家はキリストを信じた話は有名です。
第3回宣教旅行三回目の旅行は、パウロは小アジアで説教しました。
多くの奇蹟を行い、トロアスで、非常に長い説教をしたところ、
ユテコという青年が三階の窓のところで話を聞いていて、眠ってしまい、窓から落ちてしまいました。彼は死んだものと思われましたが、パウロは、彼を生き返らせたのでした。
使徒伝18:23-20:38
パウロはこう言っています。
Acts 20:19 私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、
謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
Acts 20:20 益になることは、公衆の前でも家々でも、
余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。
Acts 20:24 けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、
主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、
自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。
その働きは目覚ましいもので、投獄されてからは教会に手紙を書き送っています。
その手紙が、新約聖書の約半分を占めているのです。
私たちは、私がこれを成し遂げたとか、大きな失敗してしまったなど、
過去に囚われてしまうことがあります。
また、将来に対する不安を抱き、
今を生きることができなくなることあるのです。
将来に対して備えること、考えていくことは大切です。
しかし、過ぎ去った過去も、まだ見ぬ未来にも行くことはできません。
しかし、実際は私たちは今しか生きることができません
大切なことは、今、何をするかであり、
パウロのように、神をただとらえようとして、神ご自身を追求することです。
私たちは、信仰を持ってから、今現在に至るまでどれだけキリストを知っているでしょうか。
Phil. 3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、
その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
運動競技であれば、一等二等、あるいは金メダル、銀メダルとありますが、
信仰の競技は他人と競い合うものではありません。
他の人と比べて、どちらが信仰において優れているか、競うのではないのです。
覚えておきたいことは、他者との比較ではなく、
誰かがいないとできない、というものではないのです。
信仰は誰かと一緒には、走れるのもではありません。
1Cor. 9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
1Cor. 9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。
私たち1人一人が自分を励まし、体を打ち叩いてでも神に従わせ、神とともに歩みます。
ピリピ3:12後半 そして、それを得るようにと、
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
もしあなたが、うしろのものを忘れ、前のものに向かって走るなら、
上よりの力が注がれるでしょう。
もし神を求めるなら、神はわたしたちをとらえてくださいます。
求めて初めのうちは、心の葛藤やわからないことも多いのですが、
求め続けるなら、段階を追って、私ちを変えてくださるのです。
Phil. 3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。
もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
そして、神は神様の方法でそのことを明らかにしてくださいます。
これは本当に不思議なことです。
証:青年の頃、過去の罪悪感に縛られている時期があった
その時、うしろのものを忘れ…のみ言葉を与えられたが、理解できなかった。
その二週間ほど、のち、祖父の死を通して、神がそのことを明らかにされた
罪悪感はなくなり、新たな力が与えられた
今、皆さんはどのようなところに立っているでしょうか。
試練や葛藤、あるいは喜びのなかにおられるのかも知れません。
しかし、そのような状況の中にあったとしても、
うしろのものを忘れ、ひたむきに前に向かって進むなら、
神は、あなたを気づかせ、新たな力を与えます。
新たな可能性は常にあなたの前にあるのです。
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