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ほんとうの幸せー後篇

マタイ5:1~12「ほんとうの幸せー後篇」  

 

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。

 

そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

 

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

 

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

 

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

 

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

 

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

 

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

 

喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」

 

 

 おはようございます。先月は八福の教えと言われるイエス様の山の上での説教の前半を皆さんと一緒に味わいました。「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」は幸いであると、イエス様はおっしゃっています。私たちにとっては意外な言葉でした。この地上で言われる幸せと「心が貧しい」「悲しみ」「柔和」「義に飢え渇く」という状態は幸せに直結しているようには思えませんでした。

 

 今日取り上げる後半部分はどうでしょうか。

 

【あわれみ深い者】

 あわれみ深いとはどういうことでしょうか。辞書で調べるならば、「他人の辛苦に同情し、いたわろうとする心にあふれている様」とあります。つまり、周囲の人たちの苦しみや悲しみに心を向け、動こうとすることです。そもそも私たちは、ひどく自己中心的な存在ではないでしょうか。人より自分。かつて、某知事が選挙の公約で「〇〇ファースト」という言葉を多用していましたが、まさに自分ファーストなのが私たちです。

 

 でも神様は、私たちを救ってくださったとき、信仰者として一人で生きるようにはされませんでした。信仰の共同体である教会に連なるようにされ、交わりを通して信仰の励ましを受け、あるいは与え、共に成長するようにされました。

 

 先ほど祈った「主の祈り」を思い出してください。そこで私たちは「私たちの父よ」と祈りました。私たちは一人ではなく、他者と共に神様を仰いで祈るのです。

 

 私たちが互いに持っているものを用い、持っていない者に与え、そして助け合っていく時、キリストの教会、本来神様が求めておられる社会が形成されていきます。

 

 ここで私たちが求められているのが「隣人愛・兄弟愛」です。隣人愛を考える時に、忘れてはならないことは、神のひとり子イエス様によって与えられた無償の愛なのです。イエス様は私たち一人ひとりを愛してくださり、罪による滅びから救い出すために鞭うたれ、十字架にかかり、苦しみを、死を担ってくださいました。それなのに、私たちには、何の要求もなさらず、ただ主なる神様を信じ、キリストの十字架を受け入れることを求められました。

 

 そうして次に、私たちに、主なる神を愛し、隣人を愛することを求めておられます。というか、キリストの愛を受け取った者は、その愛に満たされ、次第に愛に生きる者とされていきます。それが隣人愛であり、隣人を憐れむということではないでしょうか。自分の中にある愛は、自分を愛する愛、あるいは近しい人を愛する愛、自分の気に入った人を愛する愛でしかありませんが、それがだんだん広げられていくのだと思います。

 

 

 私たちが隣人を憐れみ、愛していくとき、自分の愛は枯渇してしまうのでしょうか。そんなことはありません。私たちが、隣人に対して憐れみ深く生きようとするとき、それ以上に主が私たちを憐れんでくださり、祝福で満たしてくださいます。大胆に主を信じ、隣人を愛する歩みを続けましょう。

 

 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

 

【心のきよい者】

 心のきよい者―――皆さんの中で自分はこれに当てはまると思う方はいらっしゃいますか??なかなか手を挙げられないものです。誰もここに当てはまる人などいないのではないかと思ってしまいます。

 

 けれども聖書は何と言っていますか。私たちはキリストの十字架の御業により既に罪赦され、きよめられ、神の子とされているのです。

 

 一方で、罪の赦しが与えられてもなお、罪の中に生きており、日々罪を繰り返している自分がいることを私たちは知っています。私たちの内側から、神の義を行うきよい言動は出てきません。

 

 そんな中で、神様は私たちに働きかけ、正しい行い、きよい生活を行う心を与えてくださいます。それが聖化の歩みです。救われた喜びと感謝を通し、主のみことばに聞き従い、キリストに倣う生活を送るように導いてくださるのです。

 

 ただ気を付けていただきたいのは、救いが与えられ、義と認められた者が、神の律法に従おうとする良い行いをするのであって、良い行いの結果、救いが与えられるわけではありません。

 

 みことばに戻りましょう。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」

 

とありました。「心のきよい者」は、イエス様の十字架の贖いによって救われ、きよめられ、義とされた者です。その人たちは、今や、主と共に歩んでいます。ですから「神を見る」のです。皆さんが今、前に立っている私を見るのと同じようには、神を見てはいないかもしれません。でも、私たちの霊は、この混沌とした時代でも、罪に穢れた社会の中でも、「神」を見ることができるのです。

 

 

 数か月前、私の友人が仕事関係の問題で大きな負債を抱えてしまいそうだということを聞きました。祈祷課題としてそのことを聞き、ともに祈りました。神様は主の前に、また人の前に正しく歩もうとする人を見捨てられる方ではないので、私もクリスチャンである友人も信じて祈りました。難しい状況はもはや人の努力で変えられるようなものではなく、祈ることしかできませんでした。友人は本当に重苦しい空気をまといながらその夜は寝床に入りました。

 

 翌日、ある出来事が判明して負債額が5分の1になりました。それも私たちは驚いたのですが、5分の1であっても友人にとっては大きな金額。神様は正しい者を飢えさせる方ではない!と確信して私たちはさらに祈りました。プロセスはだいぶ端折っていますが、数日後、その負債がすべて免除されるという報告を受けたのです!本当にハレルヤ!神様は生きておられる!と実感した出来事でした。

 

 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 

【平和をつくる者】

 次を見てみましょう。

 

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

 

 神様が天地万物を創造し、人を創られた時、地上には罪はなく、争いはなく、戦争はありませんでした。なぜなら、神ご自身が「平和」だからです。

 

ローマ15:33 どうか、平和の(源である)神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

 

2コリント13:11 ‥‥平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

 

Ⅱテサロニケ3:16 どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。

 

 

 けれども人は罪を犯し、死にゆく者となり、その結果、権力争いが始まりました。するとそこには虐げ虐げられる関係が始まり、戦争を避けて通ることができません。平和を築くためと言いながら、力による支配を行い、今も世界では軍事力を増強する国があり、戦争が続いています。

 

 そんな中、神様は、人を救うために、御子イエス様をこの世に遣わしてくださり、十字架の死による贖いを与えてくださいました。それにより、私たちは神様との和解が与えられ、断絶が取り除かれ、神様との交わりに生きる者とされました。十字架の死とその後の復活によって、主は罪や死、そしてサタンに勝利されたのです。

 

 私たちもその勝利をいただいているので、もはや、以前のように人間的な標準で人を見て判断したり、関係を破壊したりするものに縛られる必要はありません。圧倒的なキリストの愛に取り囲まれている私たちは、隣人に対して愛を表わすように求められています。

 

 今、あなたが平和をつくることに困難を覚えているのはどこのどんな関係でしょうか。何が平和をつくり出させないようにしているのでしょうか。

 

 あの人が悪い、この環境が良くない、これがうまくいったら和解しよう・・・などと理由をつけて平和をつくることを拒んでいたなら、今日、それを手放しませんか。 

 

 私たちは神に愛され、神との和解を得て、すでに神の子とされたので、次のステップに進むことができます。今度は私たちが隣人を愛し、隣人との和解を実現する者とされるのです。様々な理由や言い訳を思いつかせるサタンの策略に惑わされてはいけません。隣人との和解――つまり両者の間に平和が実現するときに、神の国が広がっていくのです。私たちの身近な小さな和解から、平和をつくり出していきましょう。

 

ヤコブ3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。

 

1ペテロ3:11 悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。

 

【義のために迫害されている者】

 私たちが、キリストの弟子、神の民としてこの世で生きる時、おのずと、周りの人たちとは「違い」が生じてきます。生きる目的や優先順位が異なるからです。クリスチャンは、神の栄光のために生きるのですが、クリスチャンでない人たちにはそれが分かりません。ただ、自分のために、あるいは自分に近い人たちのために生きるのです。

 

 日本では「違う」ことは、偏見の目で見られ、異端視されやすいです。現代は昔に比べて個性が尊重され、多様性が強調されるのでそうでもないかもしれませんが、地方に行くと都心に比べて「違い」が摩擦を生んだりすることはあるようです。

 

 昔は「村八分」(村八分とは、村落の中で、掟や慣習を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つことである。転じて、地域社会から特定の住民を排斥したり、集団の中で特定のメンバーを排斥したりする行為を指して用いられる.

 

by Wikipedia)なんていうこともあったくらいです。日本の歴史の中で、クリスチャンが迫害されたことは有名です。

 

 長崎だけではなく、都内にも迫害されて殉教していった信仰の先輩たちの足跡があるので、以前、hi-b.a.の高校生たちを連れてその信仰の戦いの足跡を何か所か追ってみたことがありました。当時調べたところのひとつに山手線の田町駅と品川駅の間に、400年前(1623年)に宣教師を含む50人が処刑されたところがあります。日本橋小伝馬町にあった牢屋から市中を引き回され、その後、当時の海沿いで人々が行き交う東海道の横の丘で見せしめに火刑に処せられたそうです。

 

 

 私たちが生きるこの時代、この日本ではそこまでの迫害はないでしょう。けれども様々な形で神の義に生きようとする者を迫害する力は働いています。

 

 事実、私が関わっている高校生たちが学校で「自分はクリスチャンである」ということを友達に話すには勇気が必要です。キャンプの証会で「今までクリスチャンだと言えていなかった。でもこれからは隠さずに言う!」とか「お弁当を食べるときに食前の感謝の祈りをすることが恥ずかしくて怖くてごまかしていた。でもこれからは祈る!」と語ってくれる子たちがいました。

 

 大人の皆さんは彼らと環境が違うので、ちょっと違うでしょう。しかしながら日曜日の過ごし方、与えられているお金や賜物の使い方が異なる私たちに、神の義(神様がよしとされること)を知らない人たちは、悪口や批判を繰り返したり、物理的な攻撃を仕掛けてくることがあるかもしれません。また、人ではなくても制度や状況がクリスチャンを苦しめることもあるかもしれません。

 

 そんな時、私たちの反応はいくつか考えられます。①迫害されないように信仰を捨てる。②信仰は捨てないけれど、迫害を受けないように妥協する。③迫害されてもみことばに従って信仰生活を続ける。

 

 神の義を立てず、信仰を歪め、迫害を回避しようとした例が、旧約聖書に出てきます。イスラエルの民は約束の地カナンで現地の人たちと交わり、彼らが拝む神々を礼拝する罪に陥りました。

 

 あなたは直面している迫害にどのような態度で臨んでいるでしょうか。

 

 もちろん、クリスチャンが迫害をも覚悟して信仰を貫いていくことは、簡単ではありません。自分の力や努力で信仰を守ろうとするのではなく、弱い自分を認めた上で、主に委ね、祈るのです。私たちは神の義を貫くことなどできません。神様の憐れみで罪赦された者として、感謝し、主イエス様に従う歩み、イエス様に倣う生活をしていきましょう。たとえそこに苦しみや困難があっても、神様は私たちを天の御国の住人として喜んで迎え入れてくださるのです。イエス様の宣言を胸に刻みたいです。

 

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 

 先月、今月と、続けて見て来たイエス様が語られた「ほんとうの幸せ」。だいぶこの地上の価値観とは異なります。だからこそ、しっかり聞いて受け止めなければなりません。この世の価値観に流されやすい私たちですが「天においてあなたがたの報いは大きい」と言われていますから、信じて歩みましょう。

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