祈り
祈り
Mark 14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
Mark 14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
Mark 14:34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
Mark 14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
Mark 14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
Mark 14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
Mark 14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
私たちが願うようではなく、主のみこころを祈る必要があるということです。
私たちには様々な願いがありますが、みこころに生きることを願い祈る必要があります。
そしてそれは、信仰生活が御心に沿ったものとなるのです。
みこころに生きる時に神のみわざが現れます。
マタイ6:8私たちの必要は、願う先に知っておられる。
本来は一度も祈る必要はない。なぜなら主は私たちの必要を既に知っている。
しかし、祈る事によって主に信頼していることが現される。
というのはクリスチャンであっても私たちは能力や財力や良い環境、
状況を頼りにしているからである。
祈る事によって信仰が活用され忍耐が働き、私たちが整えられ神を待ち望み、
祝福と主の栄光を見るにふさわしいものに整えられていくのである。
祈りは神を変えるものはありません。
私たちが変えられるものなのです。
☆私たちにとって祈ることは、私たちが自身が御心の通りに変えられるのです。
私たちは日々主のみ技を仰ぎ見る者でありたいのです。
Mark 14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
※イエスは弟子たちにとりなしの祈りを命じている。
神のみ心を知り、実現させるためにはとりなしの祈りが必要であり、また、祈られる必要がある。
イエス自身が執り成しの祈りの必要性を強く感じていることがわかります。
祈りと信仰は、神が働かれることと密接に関係しているのです。
Mark 14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
Mark 14:34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
※イエスの恐れと悲しみは神の弱さではなく、人としての弱さを担っておられる事がわかります。また、人に死の裁きをもたらす罪を嘆いているのです。
罪がなければ死はなく、神との関係が断絶されずに済みました。
神は人との関係を熱望されているので、
罪を選んで生きるものに対して憐れみと悲しみを抱くのです。
人々を癒し、奇跡を起こしましたが、ご自身を犠牲とし、
私たちの罪の身代わりとなるための十字架の贖いは簡単なものではなかったことが分かります。
※自分を犠牲にすることは簡単な事ではありません。
十字架の贖いの技は、人の弱さを担うイエスにとっても葛藤を覚えていた事がわかります。
自己に死ぬこと、そこには葛藤と戦いがあります。
みこころに従うことは自己犠牲の連続と言えます。
そこには多くのとりなしの祈りが必要であり、絶えず自己犠牲がともなうのです。
Mark 14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
Mark 14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
δυνατά おできにならないことはない。
ダイナマイトの語源、イエスは神の力が爆発的なものであることを知っている。
神の力はすべてのことを成し遂げるので、
救いの道も十字架以外の方法にする事も可能であったでしょう。
しかし、神は独り子を十字架にかけるという形で、私たちに愛を示されたのです。
※私たちの祈りの中心は、自分たちの願望を叶えてもらおうとする思いが多いが、
祈りの本質はみこころを慕い求めるところにあります。
私たちの思いよりも、主のみこころを優先させるのです。
※なぜ私たちの祈りがすぐに答えられないのでしょうか、それには必ず理由があります。
欲しいものをすべて与えられて育った子供はまともに育つ事はありません。
み心を祈る時に私たちは、神に監督され成長し力を受けるのです。
※36節本人の望むことではないとはっきりと分かるが、
はっきりと(杯)みこころを示されている。
そして、なによりもみこころを成し遂げる事を切に祈っている。
*祈りの姿勢は主語が自分ではない
自分の願望、主張をし続ける態度は主語は自分に来ているもので、
私たちのあるげき祈りの姿ではないのです。
祈りの姿勢は神が主語であり、主が望まれることを、知り、従うことができるように祈るのです。多くのことを成し遂げ手柄を取る必要はありません。ただ従うことが必要なのです。
自己に死ぬことは非常に困難で、
みことばに従うことは絶え間ない祈りがなければできないのです。
理不尽な時として苦しい思いをするかもしれませんが、
それは苦しみだけで終わることではなく、大きな祝福となるのです。
「ヘブル12:2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、」はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神のみ座の右に着座されました。」
Mark 14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
Mark 14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
目を覚まして、祈り続ける。心は燃えていても、肉体は弱い。
目をさますとは、霊的に目をさますことです。
霊的に目が覚めた生き方とは、主語か神に置かれているものなのです。
自分の願望に主語が置かれている信仰生活は、神のみなを使っているだけであって、
霊的に目が覚めているわけではありません。
私たちは硬く決断し、強い意志を持って行動していても、
その心の中心が神のことばみこころから出ないならば、
すぐにその思いは折れてしまいます。
私たちが思っているよりも私たちはそれほど強くはありません。
※ゲッセマネに行く前にはどのような会話があったでしょうか。
ペテロはイエスに決して他の者がつまずいたとしても、
自分は決してつまづかないと力を込めて言っています。
肉の意思は一見熱く、強いものに見えますが、
実際のところすぐに折れてしまうほどに弱いのです。
強い意志は大切かもしれませんが、何処に向いているのかが大切なポイントなのです。
権力によらず、能力によらず、我が霊によってとありますが、私たちは全知全能なる方の、
霊の力を受ける必要があるのです。そして、それは祈りによってのみ可能なのです。
「1コリ6:17しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。」
一時間も起きていることができない、これはただ起きているということではなく、
霊的に目を覚まし祈ることである。
一時間は1日のうちの祈りに時間の目安になるかもしれない。
しかしながら、私たちにとって一時間の祈りというものはなかなか時間が長いかもしれない。
そこで、私たちがよりみこころにそう祈りを主の祈りから学びたいと思う。
主の祈りはキリストが弟子たちに教えられた祈りであり、
私たちが祈るべき項目が挙げられている。
「mat6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
mat6:6★あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。
そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
まず、祈りは人に見せるものではないことがわかる。
実際的に見せないというものもあるが、
見栄を張らないようにしなさいと教えられているだろう。
言葉使いを美しく整えたい、霊的でありたいという思いは大切な事かもしれません。
それらのことがみこころを求めることであれば良いが、
自分を大きく見せるものであるような見栄であってはいけない。
「mat6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、
ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
また、念仏のように言葉を繰り返すのではないということがわかります。
熱心に祈ることは大切です。しかし、同じ言葉を繰り返して、
意識の強さで神を動かすのではありません。
行ないが伴う信仰が大切であり、求めることは従うことと言えます。
「mat6:8★だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、
あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
mat6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。
御吊があがめられますように。」
アバ父よ、という祈りの初めは私たちが父と親しい関係におかれていることがわかります。
私たちは神の子であり、子どもが父に声を掛けるように親しく語りかけることができるのです。
この関係には十字架という代価が払われており、
私たちは十字架の功績によって至聖所に招かれるほどの、神と近しい関係を与えられています。
そして、御名を崇めることが祈りのはじまりです。
これは主ご自身を求めることであり、私たちは主をまず慕い求めることが必要なのです。
これを抜きにして、みこころに沿った祈りはできません。
「mat6:10★★御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
御国が来ますようにという祈りは、私たちを通して御心が行われることを願うことであり、
私たちがこの地上でみこころに歩むことができるよう助け導き整えられることを願う必要がある。
「mat6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
私たちの糧は神からのものであり、そのことに感謝する必要があります。
仕事が与えられ働けること自体が神からの祝福なのです。
主は私たちの必要を知っており、神に近づくものには報いを与えてくださいます。
そして、また人はパンだけで生きるのではありません。
み言葉を知り、それに生きる必要があります。
「mat6:12★私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、隣人を愛し人のした悪を思わず、許すことが必要であることがわかるのです。
私たちが神からのゆるしと平安をいただくためには、まず私たち自身が許す必要があります。
mat6:13★★★私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
国のリーダーや私たちの上に置かれている指導者のために祈るよう勧められています。
私たちキリスト者は国の指導者と対立するものではありません。
新約聖書の時代はユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありました。
ローマ帝国は神を中心とする国ではなく、むしろカイザルを神として崇める異教の国であり、ユダヤ人の宗教観からは相容れないものがありました。しかし、キリストは敵対するのではなく、執り成しての祈りを捧げることを進めているのです。
以上の祈りの項目はキリストが勧めている項目であり、みこころに沿ったものです。
祈るものに神は答えてくださることを体験してきましょう。
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