渇くことのない水
サマリヤの女 ヨハネ4;4~14節 30節まで、
4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
4:5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。
この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、
そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。
時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、
「水を飲ませて下さい」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、
「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、
飲ませてくれとおっしゃるのですか」。
これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、
また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、
だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、
その人から生ける水をもらったことであろう」。
4:11 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、
くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。
その生ける水を、どこから手に入れるのですか。
4:12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、
偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、
その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。
4:13 イエスは女に答えて言われた、
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、
いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、
その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
結論
神と共に生きる時に私たちは、命に溢れて生きることができます。
神と共に生きるとは、神を認め、神を愛し、人を愛していく生き方です。
命に溢れるとは、愛に溢れ、喜びに溢れ、平安に溢れて生きることです。
神は私たち一人ひとりのことを、
覚えていてくださり、宝のように愛してくださっています。
そして、私たちと関わり満たしを与えることを願っています。
神様は私たちの小さい問題も、また、私たちが解決不可能だとあきらめていることも、解決しようと、覚えてくださっているのです。
ヨハネ4:4「しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった。」
と書かれていますが、これは驚くべき言葉です。
なぜなら、当時のユダヤ人(イエス様はユダヤ人)は、サマリヤ人を嫌っていたので、サマリヤはユダヤからガリラヤへの最短コースであったにもかかわらず、ユダヤ人はそのコースを避けていた。
「通っていかなければならなかった」理由は、たった一人のサマリヤの女と会うためでした。この女性は離婚を繰り返し、現在一人の男性と同棲しています。そして、一目を避けて暮らしているのです。サマリアを通った理由は彼女の問題を解決するためでした。
サマリアの女は、罪を犯し、傷つき、悩みの中にあり、人目を気にしながらひっそりと暮らしている。彼女のためにイエス様はここを通過します。それは、サマリヤの女を悩みの中から救うため、罪の束縛から開放するためでした。
聖書のいう罪の本質は、神からの離れている状態をさします。神を無視する状態が罪であり、それによって私たちは実際に罪を犯すようになったと聖書は言っています。神から離れる事により私たちは力を失い、罪を犯し罪によって傷つき、罪が裁かれることによって滅んでしまうのです。
実際にサマリアの女は、神から離れて生活し、自分の思うがままの生活を送り、
結果、離婚を繰り返し傷ついていました。
イエスがあえて、サマリヤを通ったことは、彼女を罪の生活から救うため、また、神からの満たしを与えるためだったのです。
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。
6時ころと言うのは正午頃である。朝の涼しい時間帯に水を汲みに来るのが普通であるが、この時間帯に来ると言う事はサマリアの女は人目を避けていたのだ。
4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、
「あなたはユダヤ人でありながら、
どうしてサマリヤの女のわたしに、
飲ませてくれとおっしゃるのですか」。
これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
当時ユダヤ教のラビが女性に話しかけることはなかった。サマリアの女性は不思議に思う。ユダヤ人はサマリヤ人を差別していたので、不愉快だったかもしれない。
.4:10 イエスは答えて言われた、
「もしあなたが神の賜物のことを知り、
また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、
だれであるか知っていたならば、
あなたの方から願い出て、
その人から生ける水をもらったことであろう」。
水をくださいといっておいて、
「私が誰であるか知ったなら、あなたのほうから水をくださいというでしょう。」
驚くべき会話の展開です。
しかし、イエスが言いたかったことは、「私にはあなたの渇きを満たすことができる・今の状況からあなたを救い出すことができる」あなたが、解決不可能だと思って諦めていることを、解決しにきたと、イエスは彼女に語られているのです。
また、10節の神の賜物、贈り物とは永遠の命で、それをあなたに与えるというのです。今与えるというのです。永遠の命の贈り物には代価が払われています。それは、キリストの十字架です。
私たちがあなたの犯した罪からくる滅びの身代わりとなり、永遠の命をあたえ、あなたが抱えている問題に解決をあたえましょう。と言われたのです。
4:11-12どうやって水を汲むのか不思議に思う。
4:11 女はイエスに言った、
「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 深さ20-30m
4:13 イエスは女に答えて言われた、
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、
いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、
その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
はっきりと物質的な水ではなく神とともに生かされる、霊的な命の水。
神の愛の事を言っている。私物質的なものは、一時的には満たされるかもしれませんが、また渇きます。神と共に生きる時に、満たされ続ける。
「ガラテヤ5:22御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」
これらのもので、満たされ続ける。愛、喜び、平安はお金を出しても、
私たちが手に入れたいものではないでしょうか?
愛されるために異性にお金を使ったり、喜ぶためにお金を使います。
カラオケに行き、ディズニーランドに行きます。しかし、その喜びは長くは続きません。平安もお金を出してでも得ようとします。安心と名のつく保険は沢山ありますが、そんなものに入っても、本当の平安を得られるわけではありません。
4:15 女はイエスに言った。「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 サマリヤの女はまだ理解できない。水が永遠に出てきて、汲みにこなくて良いから、楽になる思ったかもしれない。
彼女もかなり天然であったかもしれない。が、私たちも彼女と似ているのです。
多くの霊的な解決が必要であっても、気づきません。
私たちは霊的な問題にたいしては鈍感であり、解決法を知らないのです。
そして、様々なものに囲まれ、忙しくしていますが、本当に求めるべきものを身を見落としているのです。
神からの愛を知らず、生きる意味がわからないために、
多くの人が身ずから命を絶っている現実がある。
4:16 イエスは女に言われた、
「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
会話の展開が不思議ではあるが彼女の問題の核心に迫る質問である。
彼女にとって一番聞かれたくない解決が必要な問題であった。
人目を避けて水を汲みに来る理由もその問題の故であった。
17節。サマリヤの女は「私には夫はありません。」と答えた。
確かに夫ではなかったが同棲している男性がいたのである。
イエス様は彼女の思いを知り
「私には夫がいないと言うのは、
もっともです。あなたには夫が五人あったが、
今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。
あなたが言ったことは本当ですと。」受け入れてくださった。
彼女は異性によって幸せになれると思っていた。
この人ならば私を幸せにしてくれるだろうと期待して結婚したのだろう。
そして期待は裏切られ、五回も繰り返してついには今、同棲している男性とは籍も入れる事すらしなかったのだろう。」
周りの人からも軽蔑され、
自分自身でも惨めな人間だと思っていたのだろう。
五人の夫と別れて現在同棲していると言う状態は、不幸である。
自分が一番期待していたものが自分の期待に答えてくれないことに気づいていた。私達には五人の夫や妻はいないかもしれないが、私たちも神様以上に期待して生きるものが沢山ある。
異性・お金、能力、経験、資格、この一つ一つは神様から与えられた素晴らしいものだが、神を抜きにして頼り始める時に、自分たちが期待しているほどには、その期待には答えてはいれない。
4:19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 認めます。彼女は、キリストが自分のことを救うことができるとみとめた。その後、サマリアの女は変わる。 不思議と平安と希望を与えられた。
4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 サマリヤの女は人目を避けて生活していたにも関わらず、町に行きイエス様の事を伝えた。
人は神の愛に満たされる必要があります。様々な問題を抱えていたとしても、主の生ける愛の流れふれ、満たされる時に自分が満たされるだけではなく、多くに人々にも神の満たしを伝えるものとなるのです。
ヨハネ7:37-38にあるように、生ける命の川が流れるものでありたいと思います。
もし、川のようになっていないのであれば!渇いていることであり、さらに主を求め川のような流れとされるまで、キリストの元で御霊の流れから飲むものでありたいと思います。
神との出会いは私たちを変えます。私たちの心を満たしてくださる方は、私たちを造られた神。なぜなら、神が私たちの必要を知っているからです。
ヨハネ4:3~4「主は、ユダヤを去って、また、ガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通っていかなければならなかった。」
キリストは私たちのためにきてくださることを知ってください。
そして、私たち一人ひとりが主よあなたが生きておられるならば、
来てくださいと一言、祈って頂きたいと思います。
神様の私たちのことをあきらめることはない。「伝道者の書12:1」
聖書は、神が私たちを造り、命を与え、
生かしてくださっているといいます。
学校では進化論を学ぶかもしれませんが、
進化論であって完全に証明されているわけではありません。
いままで、猿として生まれて、途中で人間になった人がいるでしょうか?
また、細胞分裂や心臓の動き、呼吸を自分でコントロールして生活しているでしょうか?
神は私たちを造り、愛し、
私たちが神と共に生きることを、
望んでいるのです。
それは、私たちが私たちらしく生きることでもあります。
しかし、私たちは神を認めることはせず、
サマリアの女のように神以外のものを頼りにしています。
お金であったり、異性であったり、自分の能力であったり…
それらのものは素晴らしいものですが、
本当に頼ることができるものは、
私たちをお造りになった神だと聖書は言っています。
詩篇23:6「私の命の日の限り、いつくしみと恵みとが、
私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」